地図
言問橋を後にし、背後の超巨大鉄塔に見守られ水戸街道は往く。
R6は墨田の下町をほぼ直線に貫いていく。
現在、言問橋先からR6は『水戸街道』と呼ばれているが、
①で述べたように旧来の水戸街道は千住から日光街道と分岐していた。
http://g.co/maps/jbdxu
それが大正末期から昭和初期にかけて関東大震災に於ける復興再編計画、それと共に荒川放水路工事が加わり水戸街道のルートが大きく変わることになる。
言問橋がまず初めに昭和3年に完成し、その後墨田の下町を貫くように北へ北へと伸びていった。
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畳屋の広告旗を括りつけられたヘキサ。
言問橋から四ツ木橋までは東向島一丁目信号付近が微妙にカーブしているものの、ほぼ直線に進んでいる。
大正後期から来るべき車社会を意識した造りの道が各地で現れ始めた。
東京でも震災復興を機に主要街道の改修計画が図られ、計画を記載した地図には言問橋から金町までぶっとい線で引かれた予定線が『四ツ木街道』と言う名で記載されている。
http://tois.nichibun.ac.jp/chizu/images/0903328.html(右上に伸びる予定線が「四ツ木街道」。他にも現在の主要道路の元になった計画線が引かれている)
まだまだ車が少なかった時代に4車線分の幅員で建設と言うのはオーバースペックのような気がするが、これ交通量に対するものというより馬車や荷車といった前時代的な低速車両を追抜できる幅員が必要であった為と考えられる。(昭和初期に計画された第二京浜では明確に高速車線と緩速車線に車線が分けられていた)
戦後、一気に車が増えて4車線がフルに使われるようになり、現在ではそれでも足りず常時渋滞する道となってしまった。
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明治通りと交差の東向島交差点。
昭和5年頃までにはこの交差点まで開通していたのだが、この北側の地域をかつては玉の井と呼ばれていた。
この玉の井は私娼館街、俗に『赤線地帯』と呼ばれる地域であった。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8E%89%E3%81%AE%E4%BA%95
『四ツ木街道』はこの赤線地帯の中心地を通り抜けるよう伸びていき、東京市街から「夜の社交場」へのアクセスルートになっていた事は間違いない。
道路計画では『四ツ木街道』と称されていたがが、地元の人々からは『改正道路』と呼ばれていた。(都市区画改正で出来た道だから?)
「後ろめたい魅力」を持った独特の雰囲気を持つ玉の井に文化人も数多く訪れ、文学作品の舞台となったりもしている。
しかし、1945年3月10日の東京大空襲で墨田区一面が焼け野原となり玉の井赤線地帯もまた灰燼と化した。
その後、売春防止法が設立などもあり「夜の街」としての歴史は閉じ、地域名も東向島と変え現在ではごく普通の住宅街となっている。
伊勢崎線のガードを潜って直ぐ、左手の路地奥を見ると旧式の車両が置かれているのが見える。
東向島駅(因みに戦前は玉の井駅)に併設された東武博物館の保存車両で、手前に置かれているのが東武日光からいろは坂下の馬返まで結んでいた東武日光軌道線200形車両。
そして奥に置かれているのは日光・鬼怒川方面への特急列車として使われていた1720系車両。
1720系正面に回る。
昭和30~40年にかけて東武と国鉄は日光方面への激しい観光輸送シェア争いを繰り広げていた。
国鉄日光線電化合わせ東海道線特急『こだま』で使われていた151系特急列車と同等のサービス設備を擁した列車を導入するとが予想され、その対抗馬として開発されたのが1720系DRC(デラックスロマンスカー)である。
国鉄151系も当時としてかなりサービスの良い車両であったが、DRCは更に豪華設備となっており全座席が国鉄のグリーン車レベルと言う気合いの入れようであった。
この結果、『日光戦争』の勝負は東武の圧勝という結果となり、現在ではJRの車両が自社の日光線を使わず東武に乗り入れて日光へ向かう、というシェア争いをしていた頃では考えられない状況になっている。
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R6に戻り、やはりひたすらまっすぐな道を望む。
かつて伊勢崎線の他にもう一つ京成白髭線と言う路線がこの地域に走っていた。
昭和3年~昭和11年と僅か8年の間だけ存在していた路線で、本線から分岐して白鬚橋前まで結んでいたのだが、実はこの路線が廃線となった理由の一つにこの『改正道路』が関与している。
当時押上止まりだった京成が都内アクセス路線を開発するために建設した路線であった。
将来的には白鬚橋に併用軌道を造り、三ノ輪で王子電気軌道(現・都電荒川線)に乗り入れる計画を目論んでいた。
http://g.co/maps/waw3c
しかし白髭線開通のわずか2年後の昭和5年に現在の本線ルートである上野までの免許取得に成功し、昭和8年に開通。
単なる市街地外れのローカル線として細々と運行していたが、『改正道路』工事が路線手前までに伸びてくると「この線路邪魔だろうからどかすね。」とばかりにあっさり廃止を決めてしまう。
そして白髭線の痕跡は空襲と戦後の宅地化で全くと言っていいほど無くなってしまい、存在していた時期も短い事から幻のような路線となってしまった。
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四ツ木橋南交差点。
この交差点をすぎた後、緩やかな傾斜を登って荒川土手上に上がる。
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橋西詰で土手上を通るr449と交差。
平日だとこの交差点の信号と橋上の幅員の狭さ(橋前後 上下2車線→橋上 上下1.5車線)により鬼渋滞が発生する。
渋滞さえなければ言問橋~四ツ木橋5分程度で行ける所、日中の渋滞時だと20分以上はかかる。
大雪が降って首都高が通行止になった時には1時間近くかかった事もある。
竣工年月が刻まれた銘板。
昭和27年7月成。
終戦7年後の開通だが、工事自体は戦前に始まっていた。
前述のとおり関東大震災の復興都市計画道路の一つとして建設され、昭和10年頃には四ツ木橋南交差点の所までは開通していたのだが、その後しばらく河口側の現在r449木根川橋上流100mに架けられていた旧四ツ木橋が迂回路として使われていたのである。
しかし、この旧四ツ木橋は木造一車線と言う貧弱極まりない橋であった。
新時代の街道を通す上でこの様な、旧式な橋を使い続ける訳にはいかず昭和14年にはバイパスに直結する現四ツ木橋の工事が始まる。
しかし,建設中に始まった太平洋戦争における戦況が悪化してくると国費が戦力に回され、都市開発を行えるような状況ではなくなり昭和18年に四ツ木橋工事が中断。
完成していた橋桁部分だけが放置されたまま、終戦を迎えることになった。
橋の両詰には国旗掲揚台がある。
しかし、自分が今まで見てきた限りではここに日の丸が掲げられていた所を見たことがない。
台座の部分が球状になっているがコンクリートが剥げ落ちボロボロにしまっている。
終戦後しばらくして四ツ木橋架橋工事が再開された。
国鉄の隣の駅(山手線内)まで10円だった時代に総工費4億円と言う巨費をかけたビックプロジェクトであった。
昭和27年に戦禍によって阻まれた大河を渡る橋がようやく完成。
橋の南側には焼け野原に建てられたバラック住宅が立ち並ぶ墨田の町。
震災復興道路として建設された国道6号『改正道路』は戦災復興道路として全線開通したのである。
続く[7回]
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