その①より
地図
茅場橋北詰のカーブを曲がると新大橋までの一直線のストレート。
新大橋の主塔が遠くに見える。
この近辺は『日本橋』を冠している地名が多いが、これは旧日本橋区と京橋区が合併し中央区になる際に日本橋区の住民からの要望で地名に日本橋を残すようにした為である。
地図
浜町中の橋交差点。
清洲橋通りと交差。
清洲橋通りの日本橋地区は上野方面からの一方通行であり、この交差点で左折する事はできない。
地図
浜町中の橋交差点を150m程進むと新大橋である。
隅田川を斜張橋で跨ぐ。
初代『新大橋』は5代将軍徳川綱吉の時代に架けられた。
架橋の切欠は綱吉の母、桂昌院が橋が少なく不便を強いられていた住民を哀れみ綱吉に之の改善を求めた事と言われている。
隅田川に3番目に架けられた橋で、ここより北側にある両国橋が『大橋』と呼ばれていた事に因んで新大橋と付けられた。
白を基調とした橋体に橙色の主搭が映える。
主塔の袂には、新大橋に因んだレリーフが掲げられている。
歌川広重『
名所江戸百景』の中の一作品(
『大はしあたけの夕立』)として描かれた江戸期の新大橋。
幕末に大量の浮世絵が海外に渡り、多くの欧州の文化人に影響を与えた。
ゴッホも浮世絵の影響を受けた芸術家の一人であり、
この新大橋の描いた作品を模写している。
明治45年になって旧来の木造橋から近代的なプラットトラス橋に架け替えられた。
関東大震災発生時には他の橋がことごとく破壊された中、新大橋だけが無事でその後の救援、復興に大きく役立った事から『人助け橋』と呼ばれたそうだ。
そんな大災害に耐えた明治新大橋も戦後の交通量増大と老朽化にはかなわず、晩年は大型車規制がされていた。
昭和52年に現在の新大橋が架けられ、旧・新大橋の一部が愛知県犬山市の「
博物館明治村」で保存されている。
新大橋の由来を刻むレリーフ。
深川に住んでいた松尾芭蕉が初代新大橋の建造中の様子の句を詠んでいる。
「初雪やかけかかりたる橋の上」
「ありがたやいただいて踏むはしの霜」
この句からも伺えるように、やはり近隣住民にとってこの橋が出来た事は相当にありがたい事だったようだ。
しかし、何かと文化人に縁が深い橋だ。
橋から隅田川上流方面を眺める。
首都高向島線と小松川線が分岐する両国JCTが見える。
下流側をみれば蒼い吊り橋の清洲橋。
個性的な橋が多い隅田川の橋でも、特に清洲橋は特徴を持った橋に感じる。
新大橋東詰。
こちら側は江東区。
地区名は橋からそのままとった『新大橋一丁目』。
銘版。
江東区側にも新大橋の由来が掲げられている。
地図
橋脇に旧橋の橋柱が保存されている。
橋を下りた所で道が急カーブ。
更に下り切った所に信号があって渋滞してたりするが、勾配で西詰から東詰の様子が伺うことが出来ない。
偶にスピード出しすぎた車が渋滞の後列に突っ込む事故が起きているので注意。
以上、新大橋通り定期利用者からのお知らせでした。
最後に夜の新大橋。
ライトアップされてます。
③に続く
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