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商業施設がメインだった銀座地区からビジネス街の京橋地区へ。
歩道の脇に都営浅草線の宝町入口。
新橋~日本橋(江戸橋)までの昭和通りは地上道路・地下道・地下鉄と三重構造になっている。
なおこの交差点下には更にJR京葉線のトンネルも交差しているが、浅草線と接続するような駅は無い。
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銀座地区の地下道は新橋から新京橋まで一気に交差点をパスしていたが、京橋・日本橋地区では交差点都度に一度地上に現し、上部道路と接続していく。
この画像を撮った時は地下道の大規模改修工事が行われ、一車線分を通行止め、更に地上接続部分を一部封鎖していた。
首都高もそうだが、高度経済成長期に建造物が一斉に建てられ、それらが半世紀程経ってやはり一斉に老朽化して言っているという印象。
奇しくも両時期とも東京オリンピック前夜というのが何とも因果。
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八重洲通りとの交差点。
左折先は東京駅前。
右折すると首都高宝町入口があり、その先をずっと進むと佃まで行ける。
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中央分離帯より車道を臨む
左車線は日本橋高島屋の駐車場待ちの車が列をなす。
現在、地上3車線・地下2車線の合計5車線のレーン(幅員44m)を持つ昭和通りだが、計画では倍以上の広さの108mであった。
昭和通りは関東大震災の復興の要として、復興院総裁『後藤新平』の肝いりで計画された。
この震災で密集した建造物に次々と火が燃え移り大火災となってしまった経緯をふまえ、巨大道路による空間を造り、延焼の広がりを食い止める狙いがあった。
また、帝都のメインストリートに相応しいゆとりある街路を形成し、来るべき車社会にも対応できるようにも計画されていたのである。
しかし、都心中心部にこれだけの道を造るのには莫大な予算がかかり、また焼けてしまったとは言え旧土地所有者からは国に土地を取られる事への反発も少なくなかった。
結局、予算も計画も大幅に縮小され現在の形に落ち着いた訳だが、それでも当時としてはかなりの大路であり完成の際には華々しい式典が行われ花自動車によるパレードも行われた。
地下道が開通する以前の中央部にはグリーンベルトが敷かれていたのだが、戦後一時期には食糧生産増大の為に畑として利用された事もある。(↓共同通信社の記事に当時の写真あり)
http://www.kyodo.co.jp/jpri/ge-tokyo/get-points-of-observation/showadoori/
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永代通りが横切る江戸橋一丁目交差点。
この交差点名からして江戸橋という地名があるのかと思うが、実は昭和48年に(地名としての)日本橋に統合され消滅。
この交差点下にある都営浅草線も『江戸橋駅』と言う駅名だったが、平成元年に『日本橋駅』変更されている。
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江戸橋南交差点。
左折の道は一方通行出口で、右折は禁止。
出来るのは左レーンから新宿・池袋方面へ向かう首都高へ入る事ぐらい。
また、ここで地下道から出てきた場合、信号過ぎてすぐに左側レーンに移動しないと次の信号で右折専用レーンに引き込まれてしまう。
ただし慌ててレーンチェンジしようとすると、後ろから地上区間を走ってきた車とぶつかりそうになったりして危険。
地味にドライバー、ライダーの注意力を試される交差点。
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日本橋川を渡る江戸橋。
現在架かっているのは昭和通り開通時の1927年(昭和2年)完成であるが、初代は1632年前後と江戸初期より続く由緒正しき橋である。
しかし如何せんお隣の日本橋が有名過ぎて、知名度的には日陰の橋。
だが実用性という面では圧倒的に江戸橋経由の昭和通りに軍配があがる。
日本橋前後が繁華街ど真ん中の為に常時渋滞中なのに対し、昭和通りは幅員も広く銀座・日本橋区間を地下道で殆どの交差点をパスする事ができる。( それでも詰まる事があるが)
『日本』橋は日本の道のモニュメント的な存在であり、『江戸』橋は正に江戸(東京)の街の流通を支える動脈なのだ。
続く[4回]
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