地図
深いカーブ状の立体交差を越えて都県境の今井橋へ。
両脇から高架でパスした今井街道と篠崎街道からの側道が合流してくる。
この今井橋、1979年の開通当初は新大橋通り直通の橋ではなく、今井街道の方へ繋がる橋であったのだ。
地図で見ればr50が今井街道に合流するような形になっているのがわかるだろう。
実は今井街道を経て小松川橋東詰めで千葉街道に合流し都内へ入るかつてのルートを踏襲したものである。
1997年に新今井橋が開通して新大橋通りに直結するようになった。
この現・今井橋より以前に架けられた旧橋の遺構が現在も残されている
橋から上流100m程の所に水面から等間隔に柱が並んでいるところがあるが、あれが旧今井橋の橋脚跡である。
1951年から現・今井橋開通の1979年の28年間と比較的短期間の間しか利用されていなかった。
これは戦前まで東京とは名ばかりの田舎であった一之江・瑞江と、干潟が広がる漁師町の行徳・浦安に架ける橋に予算はそれほどかけられず、『車がとりあえず通行できればイイや』的な感覚で建設された可能性が高い。
実際に橋脚跡の幅を見ると2車線ギリギリぐらいしかない。
しかし昭和44年に地下鉄東西線開通を切欠に行徳・浦安地区は爆発的に人口が増え、当然交通量も増大し旧橋で捌ききれなくなり現橋を大急ぎで作ったという感じだろう。
新橋完成後、旧橋を歩行者橋として残す案もあった。
しかし、橋脚設置間隔が狭かった為に船舶が激突する事故が多く、航行の安全の為に結局は撤去されてしまった。
何かと見積もりが甘かった橋だった様に感じられる。
旧今井橋より現橋の千葉県側の袂を見ると、排水がどばどばと川へと流れていた。
以前より水質は改善されてきたとは言え、今でも「きれいな川か?」と問われれば「うん」とは言えない状況である。
1958年にこの橋より1km程上流にある王子製紙江戸川工場から吐き出された排水により、旧江戸川の水質が著しく悪化し、江戸川河口付近を漁場にしていた浦安の漁師達に大打撃を与えることとなった。
その後、排水規制や浄化施設の設置で改善されていったが、かつての水質を戻すことは不可能と判断され漁師達は江戸川河口の漁場を放棄する事となってしまった。
放棄された漁場はその後、埋め立てられ陸地に。
そして現在その埋立地の一部が浦安市に最大の富を供出してくれるディズニーリゾートがあるというのはなんという皮肉か。
地図
旧江戸川渡って千葉県へと下り立つ。
橋の東詰には交差点名にもなっている『広尾防災公園』がある。
平時は広場、災害時は避難所として利用される。
この公園が出来る前には長い間放置された廃工場があって、中々の異形空間っぷりを放っていた。
地図
防災公園交差点から200m程で再び交差点。
この相之川交差点で交わるのは千葉県道6号線の旧道『行徳街道』である。
行徳街道は近世においての成田街道(現R14の千葉~船橋・R294の成田までに相当)のサブルートであった。
サブルートとは言うものの、行徳は江戸の水運ネットワークと直結しており江戸川の船着場で乗船して新川~小名木川を通る『行徳船』航路を使えば江戸の中心地まで楽々と行けたという。(
行徳船航路図)
隅田川沿いに住んでいた松尾芭蕉も鹿島方面へ旅に出た時にこのルートを利用している。
ちなみにこの新大橋通りが交差する『行徳街道』は旧今井橋近くで本道から分岐して浦安方面に向かう支道のような形になっている。
行徳街道を掘り下げると色々と興味深い歴史とエピソードが出てくるのだがソレはまた別の機会で。
地図
都道の時は全線50km制限だったのが千葉に入ってから制限40kmと厳しくなっている。
見通しの良い2車線で道路規格からすると、もう少しスピード出させてくれてもよさそうに感じる。
これは周囲が住宅地と言うことで環境対策の為の制限であると考えられる。
同様の理由で環状7号線の西側も40km制限であったが、車の環境性能向上に合わせ制限50kmに規制に緩和された。
此方の道路も是非そうして頂きたいのだが・・・
地図
中古車販売店やペット洋品店を横を通り過ぎ、相之川交差点で千葉県道6号線『行徳バイパス』に合流して東京・千葉県道50号線は終了。
道自体は市道扱いになりつつも直進しR357『湾岸道路』まで至り、更に進むと東京湾にぶつかる。
より大きな地図で 東京都道(千葉県道)50号線・新大橋通り を表示
之にて東京都道・千葉県道50号線の行程は終了。
最後にふと思ったのが、この新大橋通りは陸上に上がった『行徳船航路』なのではないかと事だ。
そもそも『行徳船』は行徳塩田で精製された塩を日本橋袂にあった市場に運ぶ為の航路として開発されたものである。
その日本橋市場が関東大震災後に移転して開設されたのが新大橋通り基点付近にある築地市場なのである。
水上路から陸路に変わったといえ行徳は中央市場に直結したルートを持ち続けている町だった
まさかこんなオチが待っているとは書き始めの時には思いもしなかったが、地元の歴史に触れることが出来て個人的に大変満足な気分。
道っておもしれぇや。
[6回]
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