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本田広小路の陸橋と合流。
陸橋上が車線変更禁止規制がかかっているのだが、左車線渋滞で右車線はスイスイと言う事が結構ある。
しかし、しびれを切らして橙色ラインを横切って隣車線ヘ行ってみれば陸橋下におまわりさんお持ちかね、と言うパターン。
渋滞中からの急な進路変更は事故にもなりやすいので我慢して進むのを待ちましょう。
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葛飾区立石で『水戸 100km』。
徐々に数字が小さくなっていくという快楽。
『旅とは移動する事が全て、目的地はオマケ』という人ならわかってくれるはず。
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上野方面から来た京成本線。
京成白髭線を鉄道史の霞へと追いやった2つのラインが交差する。
京成本線の上野~青砥間は『筑波高速度電気鉄道』と言う会社を買収し、同社が持っていた敷設免許を利用して建設された。
『筑波高速度電気鉄道』は社名の通り、筑波に至る鉄道を計画し日暮里を起点にして千住・八潮・流山・守谷を経由するものであった。(京成の千住大橋~青砥間は松戸方面への支線免許を利用)
この計画線の経路を見ると、現在運行している『つくばエクスプレス』がほぼ同じルート。
だが『筑波高速度電気鉄道』と『つくばエクスプレス』は全く繋がりはなく、単純に都内と筑波を結ぶ最も効率的なルート選ぶと、この経由地になると言うだけだろう。
また建設動機が前者は「筑波山麓の
筑波郡田井村(現在のつくば市筑波地区)へ至る参詣鉄道」と言う内容に対し、後者は「都心と研究都市であるつくば市(
つくば駅がある場所は旧新治郡桜村)を結ぶ通勤・ビジネス路線」と違う物になっていて、終着地点も現在でこそ同市内であるが嘗ては別の自治体の少しばかり離れた場所になっている。
でも実はこの過去の計画に因んで『つくば(筑波)エクスプレス(急行→高速)』とか命名に籠めてたら面白いな、とか思ったり。(一般公募の最多は『つくば線』だった)
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葛飾の住宅地をまっすぐ進むR6。
戦前にこの道を荒川南側の墨田の人々が『改正道路』と読んだのに対し、北側の葛飾の人々は『十三間道路』と呼んだ。
一間はメートル法に直すと
1.8182m。
一三間だと約23.6mになり4車線+歩道の幅員という事になる
当時、長閑な農業地域だった場所に突如現れた大路に対しての人々の驚きが伺い知れよう。
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環七との交差の青砥7丁目交差点。
ここも往々にして右左折待ちで渋滞が発生する。
意外にもこの環七も関東大震災復興計画で策定された道である。
ただし、当初の計画では現在の亀有2丁目交差点で旧水戸街道からの分岐を予定し、葛西方面へは計画されていなかった。
また、この『新水戸街道』もそこから旧街道と分岐する予定であった
実際には新道と旧道の分岐は中川を越えてからとなり、環七建設も殆どの区間が戦後からの着工となっている。
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環七を過ぎると一時的に流れが良くなる。
中川大橋に向け緩やかに上りに入る。
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中川大橋へ。
この中川大橋は1985年(昭和60年)完成の2代目。
初代は1935年(昭和10年)に『十三間道路』開通と共にできたカンチレバー式プレートガーター橋だった。
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橋を渡るとまた渋滞。
ここは土日関係なく密度の高い渋滞する。
4車線だった旧橋から6車線に幅員を増やしたの、結局渡った先で車線が少なくなってしまうので詰まってしまう。
この渋滞は金町陸橋の前まで続く。
続く[15回]
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