より大きな地図で 都道r302号線 靖国通り を表示
都心部を横断する数少ない道である靖国通り。
西側は青梅街道、東側はR14京葉道路と接続していて利用価値は高い。
この道も数多く計画された関東大震災復興道路の一つ。
ただ新規に造られたと言うより、旧来からあった道を拡幅したり、別々だった道を一つに纏めたりして出来た道だ。
実は靖国通りは当初『大正通り』と名付けられていた。
大正通りは前述の通り東西横断し、南北道路の昭和通りと合わせ復興計画において最重要視された道だ。
この二つの道が東京の導線、更に同じく元号が道路名となっている明治通りは東京の外郭を包む周回道路と言う役割だったのだろう。
いつ頃大正通り→靖国通りになったかは明確ではないが、日本軍の大陸進出が活発化し、俄に軍国主義が濃くなった時期に靖国神社横を通るこの道に『それらしい』名称が与えられたのかもしれない。
また沿道の市ヶ谷には嘗ては陸軍士官学校、現在は防衛省+市ヶ谷駐屯地が置かれていてミリタリックな雰囲気を漂わせる
ただ日本最大の歓楽街『歌舞伎町』、逆に文化の殿堂、神田神保町の書店街があったりと東と西を結ぶだけでなく、陰と陽、新と旧と東京の様々な姿を結ぶ道でもあるのだ。
まずは起点の混沌の街、新宿より始めて行こう。
地図
都会の雑踏ど真ん中、新宿大ガード東交差点。
ここを起点にして靖国通りはスタートする。
後方にはJRの大ガード。
ここを潜るのがr4青梅通りで、靖国通り直通の一本道になっている。
左側には日本一の乗降客数を誇る新宿駅がある。
地図
大ガード東交差点から100m程で歌舞伎町交差点に。
歌舞伎町の入り口。
普段なるべく画像に人が写らない様にしているのだが、此処ではそんな事はムリ。
これから夜を迎え、この町は更に活気づいていく。
地図
新宿区役所入り口交差点。
区役所が歌舞伎町地区にあるあたりが如何にも新宿。
この交差点の横断歩道を渡った左斜めの所には細い路地があるのだが、これは都電の廃線跡。
地図
r305明治通りとの交差の新宿五丁目交差点。
周辺にはマルイや伊勢丹などの大型デパートや映画館があり人の行き交いが激しい。
下り車線側は駐車場へ入る車で行列をなし渋滞が発生する。
地図
明治通り過ぎてすぐに新宿5丁目東交差点。
ここで交差する道はr305の支線で現在は新宿御苑手前で終わっているが、将来的には御苑を潜るトンネルを造り明治通りのバイパスとなる予定だ。
なお、この場所までr4と重複となっている。
ちょっと以外なのが一桁都道が三桁都道から分岐していくと言う事。
都道や県道の起点・終点部は国道や若い番号の都道・県道から分岐していくのが大体のパターン。
明治通りを経由して南側を走るR20から分岐していく形にしても良さそうなものだが。
地図
明治通りを過ぎると大分あたりの雰囲気も落ち着いてくる。
大部分が元々あった大通りを改良して出来た靖国通りだが、新宿周辺の区間は路地や住宅地の生活道路だった道を繋ぎ合わせ拡幅して出来ており、殆ど新規に造ったのと等しい。
地図
富久町交差点。
r418外苑西通りの終点部となっている。
靖国と共に外苑西も震災復興都市計画によって策案された道の一つ。
この復興計画では主要道路の交差部をロータリーとしていた。
ヨーロッパでは交差点をロータリーとするは一般的であり、それを模範として日本にも普及させようという試みがあった。
この富久町交差点もその一つで交差点中央に小さな円形広場があり、それを周回するようなロータリーとなっていた。(ただ
昭和20年代頃の航空写真にはロータリー中心を突っ切って直進しているような跡も見える)
信号を設置する必要のないロータリー式交差点であるが、設計上どうしても直進する車両もロータリーに侵入する際に安全確認やカーブの為に減速せざる得なく、交通量が逼迫してくると渋滞の引き金となってしまう欠点があった。
結局急激に増大してきた車両数にロータリー式交差点では捌ききれず、昭和40年代には都内のロータリー式交差点は消滅してしまうのである
交差点北側見ると外苑西通り予定地らしき敷地が。
本来の計画では
北側の余丁町まで伸びる筈であった。(環状道路4号線としては更に長くなる)
昭和30年代の航空写真を見てもこの中途半端な延長箇所が見て取れる。
しかしそれから何時までたっても用地が取得できず未完成のまま。
東京は戦後処か関東大震災の復興計画も終わらないまま21世紀まで来てしまったと言うことか。
続く
[8回]
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