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東京起点

東京23区が起点の道を延々追いかけるだけのブログ。

   
カテゴリー「国道6号線(継続中)」の記事一覧

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国道6号線① 江戸通り(日本橋本町3丁目~浅草橋駅前)


より大きな地図で 国道6号線 を表示

国道6号線は東京から仙台を繋ぐ国道。
R4が内陸廻りで仙台に向かうのに対し、R6は海沿い廻りで向かう。
ルートは違うが、この2つの国道が再び合流する岩沼市までR4が327.7km、R6が326.1kmとほぼ同じ距離と言ってもいい。
どちらも険しい峠越えがない比較的緩やかなルートだが、R6の方が比較的高低差がない平坦の道が続く。
だが、その平坦な地形が災いし2011年3月に発生した東日本大震災において発生した大津波が内陸深くまで侵入しR6沿道地域に大被害を及ぼすことになってしまう。
更に津波により福島第一原発の冷却装置が全て喪失してしまい、原子炉3基がメルトダウンを起こすと言う最悪な事態を引き起こしてしまった。
その為に福島第一原発周辺20km圏が警戒地域に指定され、原発の横を通っていたR6は南北に分断されていると言うのが2012年時点での現状である。
実家がR6通過地域の松戸市で、かつて自転車で北海道へ向かった時にもR6を北上したりしていて思い入れのある道だけに残念な事この上ない。
しかし、逆に考えればR6はこの未曾有の災害に立ち向かっていく上で必要不可欠な道であり、福島浜通り・宮城南部沿岸地域の復興への道でもあるのだ。
そんなR6の姿を少々時間は掛かってしまうとは思うが、少しでも多くの人に知ってもらえるように辿って行きたい。


R6-1.jpg 地図
国道6号線の起点は一応日本橋となっているが、R4の重複区間となっており実質的起点は日本橋本町3丁目交差点である。
前述の通りR4とは再び岩沼市の藤沼交差点で合流する。
この交差点から言問橋まで「江戸通り」と言う名称となっている


dfac3da7.jpeg
R6のファースト国道標識。
ビルの谷間をゆるいカーブを描いていく。


e69e9398.jpeg 地図
カーブを曲がりきると蒼い空を突き刺すスカイツリー。
この時点でかなり大きく見えるが、スカイツリーのある押上地域を掠めていくルートなのでコレから更に巨大化していく。


7729c152.jpeg 地図
清洲橋通りとの交差の馬喰町交差点。
この下にはJR総武本線の馬喰町と都営新宿線の馬喰横丁駅があり、少し離れているが都営浅草線の新日本橋駅とも接続されている。
JR馬喰町駅は国鉄時代に両国駅終点だった中距離電車と急行・特急列車の線路をルート変更+延長して横須賀線と繋げた時に出来た駅である。
開設当時は国鉄で最も低い位置(海抜-27.14m)であったが、更に低い位置の京葉線東京駅ホーム(海抜-29.19m)、定期旅客駅ではないが海峡線の吉岡海底駅(海抜-149.5m)が出来てその座を譲った。


eb46d45d.jpeg 地図
浅草橋交差点。
この交差点よりR14が分岐、反対側は都道302号線の起点となっている。
都道302号線が一般的に靖国通りと呼ばれている道だが、『靖国通り』と呼ばれている経路はこの交差点が起点では無く、少しばかりR14に入った両国橋。


f1ce2423.jpeg 地図
浅草橋交差点を過ぎてすぐに東日本橋方面から来た道と合流したのち、この周辺地域の町名となっている『浅草橋』を渡っていく。
この橋は何度も渡っているのだが、実はこのブログを書くまで浅草橋だとは知らなかった。
車やバイクで通ると延長が短いわりに幅員がかなり広いので全く橋だと気づかず過ぎてしまうのである。


792569b5.jpeg
神田川を渡る鋼2ヒンジアーチ橋の浅草橋。
昭和5年完成で清洲橋や永代橋と同じく関東大震災の復興橋の一つとして架けられた。
この現在の橋が架けられるまで明治維新から半世紀の間に4回も架け直されている。
まず明治7年に石造アーチ橋として架けられたが、僅か9年後の明治16年にはボウスリングトラス橋にかけ直され、更に明治31年に現在の橋と同じ形式の鋼2ヒンジアーチ橋に架け直された。
建設直後に欠陥が見つかったのか、それとも交通の変化が早すぎたのかわからないが、此処まで頻繁に架け直される橋も珍しい。


6a1b7f51.jpeg 地図
浅草橋北詰の袂には浅草見附跡の石碑がある。
江戸城防備の為の城門が設置されていた場所で、江戸市内と歓楽地であった浅草の出入口でもあった。
明暦の大火の際、伝馬町の牢屋にて収監されていた囚人達を大火から逃れさせる為に釈放させたのだが、浅草見附の役人が混乱にまぎれての脱走と勘違いをして城門を閉じてしまい、囚人のみならず逃げ場を失った人々が火に巻かれたり川に落ちて溺死してしまうといった大惨事が起きてまった歴史を持つ。

さてこの浅草見附、現在は水戸街道にあたるR6が通っているが、元々は日光(奥州)街道のルートであった。
正確には日本橋~千住間は千住街道と呼ばれていて、水戸街道は千住より分岐していた。
しかし更に遡って徳川幕府開府以前の日光街道は、もっと先の松戸を経由していくというルートをとっていた。
日光街道と水戸街道の変遷はまた後にも書くが、時代により2つの街道の東京・江戸近辺のルートは大きくルート変えていっている。


46ed7904.jpeg
橋の下を見ると多くの屋形船が停泊。
江戸期の頃より浅草遊びの一環として船遊びが盛んであった。
特に浅草橋西側、隅田川との合流部にある柳橋周辺は屋形船の拠点として栄えた。


6fe5a9a1.jpeg 地図
浅草橋より200m程でJR総武線『浅草橋駅』。
総武線の両国~御茶ノ水間は昭和7年に関東大震災の復興政策の一つとして建設された。
浅草橋~秋葉原の高架の一部は都市部で見られるラーメン式高架ではなくコンクリートアーチの連続橋となっている。
また、高架下に昭和レトロな建物がはめ込まれるようにして建っていたりして独特の雰囲気を持ち面白い。
http://tokyodeep.info/2010/02/14/010932.html#more
地下には都営浅草線の浅草橋駅もあるが、羽田空港~成田空港間を結ぶエアポート快特は停車しない。
浅草橋と言う駅名ゆえに他地方から来た人々が『浅草』と勘違いしていまい下りてしまう事が多々あるそうだが、実際には浅草中心地までは2km近くある。
そんな人々のためにJR駅の方には都営浅草線で乗り換えて浅草へ行くように促す看板設置されている。

浅草橋駅で印象に強く残っているのは昭和60年11月29日に国鉄民営化に反対する中核派ゲリラによる同時多発テロ事件が発生し、浅草橋駅はその標的の一つとなり、燃え盛るホームがTV映し出されていた光景だ。
駅に押し入ったゲリラにより駅施設が破壊され、ホームには火炎ビンが投げ込まれ火災が発生。
当時小学1年生だった自分は大変な恐怖を感じ、今でもそのシーンは忘れられない。
この以前から利用者からは度重なるストやサボタージュによるダイヤの混乱にうんざりしていた所に、このテロが起きた事で世論の民営化支持が決定的となり、現在のJR5社体制への流れへと繋がっていくことになる。


続く

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