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東京起点

東京23区が起点の道を延々追いかけるだけのブログ。

   
カテゴリー「国道14号線(継続中)」の記事一覧

国道14号線① 靖国通り 浅草橋交差点~両国橋



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R14の原型となった『千葉街道』の歴史は浅く、意外にも明治時代に初めてこの名称が出来たのだ。
それ以前にもこの『千葉街道』に道筋に当たる道はあったのだが、江戸~船橋間は徳川幕府の有力者を多数輩出した佐倉蕃へと結び、またの途中にある成田山への参詣路でもある『佐倉街道』の一部であった。
千葉方面へ向かう道は『佐倉街道』から房総方面へ分岐していく支線のような存在で「上総道」「木更津道」「房州道」、千葉方面視点からだと「江戸道」という名で呼ばれていて千葉の町は終点というより主要な通過地、という扱いだ。
ただ現在も千葉市は『目的地』というより房総や成田、銚子方面の玄関口たる通過点としての性格は強い。
R14は県各地への主要街道が集まる千葉の街へのアクセス路となるのだが、『下道のR14』を使って向かう者は殆どいないといっていいだろう。
横浜やさいたま等、首都圏の主要都市を結ぶ道は概ねバイパスが整備されていて、高速を使わなくともさほど時間が掛からない。
では東京ー千葉間の一般道が全く整備されていないと言うと、そういう訳ではないのだが・・・

日本橋起点の主要街道としてはやや奇特な性格を持つR14の様子、少しづつ見てもらいたい。


地図
R14の基点は日本橋だが、実質的な基点は重複していたR6分岐する浅草橋交差点。
r302と入れ替わるようにして千葉方面へと東進を開始する。
この行き先看板には既に『R14京葉道路』としているが、実は本当の『京葉道路』の基点は両国橋であり、其処までは『靖国通り』が正式な愛称となる。
『靖国通り』の項でも書いたが、嘗て『靖国通り』は『大正通り』と呼ばれていた時代があり、その時の終点は両国橋ではなく錦糸町であった。
戦前まではそこで道路は途切れていたのだが、千葉方面へ道を伸ばす計画自体は既に大正末期の時にはあったのである。

【追記】既に大正末期には亀戸まで、昭和10年代には荒川放水路を渡る初代小松川橋が開通していました・・・

ただし、意外な事にこの道は最初から『千葉街道の新道』と言う訳ではなかったようだ。
これは追々、記述していきたい。


地図
R6から分岐してすぐの交差点だが、ここも浅草橋交差点の一部。
北側には浅草橋南交差点があり3つの道に挟まれたトライアングルゾーンが出来ている。
このトライアングルゾーンを囲こむフェンスには共同溝工事の告知の看板が掲げられている。
平成25年現在、隅田川地下に共同溝を通す為の工事が行われていて、この下には路下ヤードが広がっているのだ。
大量の資材、建設機器を置く為に使用されているが工事完了後は不要となる為に、その後の使用法が検討されている。


地図
両国橋西交差点。
ここでは左右に分岐していく道と、靖国通りの旧道(にあたる道)が合流してくる。
交差点の左側歩道には『旧跡 両国広小路』の記念碑が置かれている。
現在、両国と言えばこの橋東側対岸の墨田区両国を指すが、実は『本家』の両国の地名は此方の橋の西側の地名であった。
橋の西詰のあった両国広小路周辺には多くの見世物小屋や芝居小屋が開かれ、屋形船の乗船場などもあり、大いに賑わい江戸三大広小路(両国、上野、浅草)の一つとして人々に知られた。
つまり、時代劇に出てくる『両国』は墨田区の方ではなく、此方の両国を指すのが正しい。
しかし、時の流れが何時の間にか『両国』の地名を川の対岸へと移り変わらせてしまうようになる。


地図
緩やかな上り勾配で両国橋へと差し掛かる。

この場所に初めて橋がかけられたのは1659年(万治2年)と1661(寛文元年)の2説ある。
徳川幕府は当初隅田川を渡る橋を千住大橋の一つだけと定めていた。
初期の徳川政権の土台は磐石ではなく、万が一関東、東北の大名が反乱を起こした時に唯一の渡河地点となる千住大橋で迎え撃つ算段だったからだ。
しかし、これが太平の世では裏目となる。
1659年(明暦3年)に起きた江戸の町を焼き尽くす大火が発生し、川辺まで追いやられ逃げ場を失った市民たちが大勢死傷するという事件が起きてしまった。
これを転機に幕府は方針を変更し、隅田川に多数の橋を架けるようにした。
両国橋はその第一号であった。
また先程述べた両国広小路は当初、大火の延焼を食い止める為の防災広場として開設されたものである。
橋の架橋により人の行き来が多くなり、江戸市内が隅田川対岸まで広がるようになった。
そして『両国地域』は江戸でも屈指の繁華街となる。



両国橋の銘板とその上に掲げられたオブジェ。
これは打ち上げ花火の玉をモチーフにしている。
江戸期より続く隅田川花火大会に因んでの事。
現在の橋は昭和7年(1932年)に竣工した。
当時の架橋技術先端を駆使して作られ、三大ゲルバー橋(両国橋・言問橋・天満橋)の一つとして数えられた。
親柱上のオブジェの他にもガードレール横に軍配や花火の絵が描かれたりと、デザインのいたる所に両国文化が散りばめられている。

先代の両国橋は関東大震災により破損してしまったが残存部分を改修して、この場所より南側2.5km程を流れている亀島川を渡る南高橋として再利用されている。
南高橋は『両国橋時代』(1904年架橋)を合わせ、既に110年以上使われていて車道橋としては最も古い橋となっている。


こんな所に『おにぎり』が。
数字は何かの管理番号?
『建設省』の文字が書かれていることから、大分前に貼られたものだ。
旧省名でも特段問題なさそうなので、しばらくはこのままであろう。



橋上から上流方面を望む。
スカイツリーをバックに総武線が隅田川を渡る。
総武線隅田川橋梁は両国橋竣工と同じに両国から御茶ノ水へ延長された時に架けられた。
3径間ゲルバー下路式ランガー桁と言う形式の橋で、完成当初では日本で初めて採用されたもの。
それにしても関東大震災後に架けられた隅田川の橋には「日本初」や「当時の技術の先端」と言う単語が枕詞の様に付いてくる。
それだけ復興にかける強い意気込みと、一番最初の両国橋の架橋理由にもなったのと同じく災害時の避難経路として橋が重要だと再認識された事が伺える。



此方は下流側の景色。
川の上で首都高6号向島線と7号小松川線が分岐(両国JCT)。
その背後にはr50の新大橋が架かる。
新大橋が何故『新』大橋かというと、両国橋が当初『大橋』と言う橋名だったからだ。
『両国橋』と言う名は元々通称名で江戸初期まで隅田川が武蔵・下総の国境だった事に因む。
その後、1684年(貞享3年)に国境は現在の江戸川(当時は利根川)に移動したが、『両国橋』の橋名が広く定着していた事から、新大橋の架橋後(1694年)に正式な名称となった。


  地図
川を渡り切り墨田区両国へ。
ここから先は正式に『京葉道路』となる。
画像の橋東詰めにある交差点を右折する道は旧千葉街道である。

前述の通り、『元祖・両国』は中央区側だったのだが、今ではすっかり両国と言えばこちら側になってしまっている。
両国橋架橋以前は江戸郊外の農村でしかなかったのだが、架橋後は一気に開発が進み新興住宅地として栄えていく。
そして、橋東側地域を『東両国』もしくは『向う両国』と呼ばれる様になっていくのだが、それでも江戸中心地に近い西側地域の方が広小路の盛況もあり、江戸中期頃までは『両国』と言えばそちら側指す事が多かった。

『両国』の地名を東側(墨田区側)が奪っていく切欠となったのは、「相撲」だ。
旧千葉街道に入ってすぐに差し掛かる丁字路を左折した所に『回向院』と言う寺院がある。
この寺は現在より50m程南側にあった旧両国橋を渡った先の突き当たりという立地だ。
回向院は両国橋架橋理由となった明暦の大火の犠牲者供養の為に建立された。
その後、幾多の災害の犠牲者や刑死者など数々の無縁仏を受け入れる寺院として知られるようになったが、知名度を大きく広げるようになったのが天保4年(1833年)に勧進相撲の定場所となった事だ。
江戸期の最大の娯楽である相撲観戦の為に、多くの人々が『東両国』へ集まるようになり西側の『元祖・両国』にも劣らない繁栄を得るようになった。
そして決定的になったのは明治期に総武鉄道(現・総武本線)のターミナル『両国橋駅』が授けられたことだ。
そして回向院内に旧両国国技館が開設されると『相撲の街・(東)両国』は揺るぎないものとなる。

一方、中央区側の両国は1971年までは『日本橋両国』という地名で残っていたものの、現在では『東日本橋』という地名に変わってしまい郵便局に『両国郵便局』という名称が残っている以外に無くなってしまった。


地図
両国2丁目交差点の手前の広場に巨大な石碑が置かれているのに気付く。
何度もこの道を通っている気になって履いたが、きちんと確認した事はなかった。
少し立ち寄ってみる。



『両国児童公園』という児童っぽい雰囲気の欠片もない広場。
巨大石碑の他に中規模石碑と絵が刻まれた石版が飾られていた。



まず手前の石碑を見てみる。
『日の恩やたちまちくだく厚氷』と句が刻まれる。
「日の恵により、厚く凍った氷もたちまち溶けるように、人々の情のおかげで本懐を遂げることができた」と言う意との事。

これを詠んだは赤穂浪士の一人『大高源五』。
大石内蔵助の信任の厚い人物であり、俳人としても知られていた。
多くの俳人と交流があり、上記の句も松尾芭蕉の弟子『宝井其角』と両国橋の袂で出会った時に読んだ句である、と言う説がある
しかし、人によって『討ち入り前』だったり『討ち入り後』だったりと真逆の解説がされている。
更にこれは其角にではなく、吉良邸の隣人に感謝の為に読んだ句だ、と言う人もいて一体どれがほんとなんだ!という気分になる。
赤穂浪士事件をテーマにした作品はあまりも多く、演出・フィクションがまるで歴史の事実の様に語られる様になってしまったが為の影響と言えよう。



大高源吾の句の石碑の隣には江戸期の両国橋の様子が描かれた石碑
この絵の元は歌川広重『名所江戸百景』の『両国橋大川ばた』。
大川と言うのはかつての隅田川の呼び名。
隅田川は元々荒川の下流部。
現在でも水量がそれなりに多い隅田川であるが、大正末期に荒川放水路(現・荒川)が開削され分流する以前は更に水量豊富なまさに「大きな川」だった。
もっといえば江戸期以前は利根川の本流も注ぎ込まれていたので、膨大すぎる水量により水害が頻繁に発生する暴れ川であった。
徳川幕府は江戸の町を水害から守るため、利根川の流れを現在の江戸川に移した。
その結果、『利根川本流』を基準としていた武蔵・下総国境も移動する事になる。
更に利根川は北側へ移動し現在の位置へと流れる様になるが明治期までは放水路扱いで、利根川本流は現・江戸川であった。



さて、前側の石碑をチェックした所で後方の巨大石碑に目を移してみよう。
石碑の前にたつ日傘のかけた人と見比べてみれば如何に大きいかわかるであろう。
画像だと影になってしまい少々見辛いが『表忠碑』と刻まれている。
そして左下には、この字を書した人物『大山巌』の署名。
あの明治政府の元老の大山巌である。



石碑の裏にはびっしりと人名が刻まれる。
人名と共に『陸軍歩兵二等兵』等と兵士の階級も刻まれている
これは日露戦争時に本所区(現在の墨田区南部)より出征した戦没者の為に建てられた石碑であった。
右下にはこの石碑を建てる為に尽力した人達も刻まれていて、その中にはやはり明治期の大人物である榎本武揚の名がある。
この碑が建てられたのは日露戦争終戦から2年後の明治40年(1907年)。
『芥川龍之介』の両国の町を語る『本所両国』という作品内でもこの石碑の記述があり、「両国橋の袂にある表忠碑も昔に変らなかつた。」と書いている。
日露戦争より百年近く経った今も「昔に変わりにかつた。」・・・、と言いたい所だが実は近年になって少々石碑の周りが変わってしまっていたようだ。
平成18年の頃はこんな感じだったらしい。
木々に囲まれ穏やかなに佇む雰囲気だったのに、今では周りの木は刈られ殺風景な感じになってしまった。
更に石碑の前には日露戦争の砲弾と錨が一緒にオブジェとして置かれていたのに、これは現在は見当たらない。
うーん、歴史的に重要なモニュメントなのに、墨田区の扱いにちょっと疑問を感じてしまう・・・


続く

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自己紹介:
目的地に着くよりも、目的地に着くまでがしあわせ。

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